【あの頃にさよなら】前編
愛を育んだ一組の夫婦が、新たな命をその身に宿そうとしていた。
それは多くの場合、在るべくして自然と宿るもの。しかし時たま、魔界や天界といった世に住まう神々の手によって使わされる命もある。そうした命は、魂はそのままに人の姿を借り、役目を背負って地上へとやってくるのだ。
その夫婦の元へも、役目を背負ってある命が送り込まれた。
どんな世界にも伝わっている通り、魔界と天界は仲がよろしくない。というより、お互いを毛嫌いしているため理解するのを拒んでいた。それはもはや世の理 のようなもの。もともと存在した確執か、はたまた発端が存在したのか、今では両界に理由を知るものはほとんどいない。いるとすれば、それはそれぞれの世の 神か、永きを生きた余程位の高い天使か悪魔だろう。現在においても互いの溝が埋まっていないのを見る限り、おそらくその理由を知る者はそう居ない。
そんな争い合う理由も忘れ去られるような喧嘩を、彼らは未だ繰り返しているのである。
そんなことだから、とある夫婦の間において悪魔が一人、地上に遣わされるという情報をいち早く掴んだ天界の者たちは、生まれてくるであろう悪魔の行いを阻止するべくその悪魔が宿るのとまったく同じタイミング、同じ夫婦の間に天使を一人遣わした。
要するに、天使と悪魔が双子の人間として生まれてくることになったのである。
▲ 1
ある冬の寒い日、病院で二つの産声が上がった。双子の、元気な男の子である。先に生まれた子はノボリ、後に生まれた子にはクダリと名付けられた。
彼らが天と地より遣わされた者。故に本質は、ノボリが天使、クダリが悪魔である。
二人は元気にすくすくと育った。魂は違えど外見的には普通の人間となんら変わりなく、近所の子や保育園の子たちとも一緒になって遊び回った。
なぜそこまで周囲となんの問題もなく溶け込むことができたのか、というと、人として生まれる前の記憶は封じられており、年を重ねるごとに少しづつ思い出 していく仕組みになっていたからである。そのため、幸か不幸か、ノボリとクダリはとても仲がよかった。どこへ行くにも一緒、何をするにも一緒。彼らの親で さえ、二人が離れている所は見たことがなかった。
しかしそんな二人に変化の兆しが現れたのは、小学校もそろそろ高学年という年の頃。二人が家で留守番をしていたときのことだった。
暇を持て余したクダリがノボリを驚かそうとして、自室から出てきたところに死角から飛び出したのである。
案の定、ノボリはとんでもなく驚いた。あまりに驚いたために、その拍子に普段は視えない真っ白な両の翼がばさりと広がってしまう。羽根がはらはらと宙を舞った。
その様子に逆にクダリが驚いて、目を見開いた。
「ノボリ…それ…」
クダリの言葉を聞いて、脅かされた際に沸いた怒りなど吹き飛んで、ノボリは問い返した。
「これが、視えるのですか…?」
彼らの翼は、努めて実体化させない限りは普通の人間には見えない。故に服が破れてしまうといったこともないのだ。その翼が視えるということは…
「うん。ぼくもね、あるから。」
その瞬間、お互いがもともとはこの世界の者でないこと、既に記憶が戻っていることを把握する。
ほら、とクダリが広げて見せた翼は確かに。しかしノボリとは違うコウモリに似た骨張った翼。ただしその色は形に不釣り合いな白。
「白…?」
「そ。このせいで゛あっち゛でも異端扱い。そのくせ悪魔使い荒いんだから嫌になっちゃうよ。」
クダリはそう言ってため息をつく。
ノボリはそれに対して、どう返したらいいのかわからずに困った顔をする。
共に生まれた悪魔、つまりクダリの役目を阻止しなければならないという自分の役目はバレてしまったのだろうか。それとも天使ということがバレたために殺されてしまうのか。だとすれば、それはとても悲しいとノボリは思った。
自分に課せられた役目など何かの間違いであってほしいと常々願ってきたし、なぜ相手がクダリなのとも思い悩んだ。ノボリは双子としてのクダリの関係をとても好ましいと思っていたのだ。
クダリが自ら正体を明かすその時までは、何をしようと手を出さずにいると決めていたのに。
「ノボリの翼、綺麗だね!」
クダリがいつもの、好奇心に満ちた目でこちらを見、ノボリの方へと手を伸ばす。ノボリは、直前まで自らがしていた想像も相まって、反射的にびくりと身体を震わせてじり、と後ずさった。
その様子に、クダリがはっとして手を引っ込める。
「…ごめん。」
クダリの悲しげな表情からノボリは、自分がクダリを傷付けてしまったことに気づいた。
「クダ…」
「ただいまー!」
慌てて弁解しようとした声は、帰宅した両親の声にかき消されてしまった。その途端、何事もなかったかのようにクダリは踵を返し、両親の元へと笑顔で駆けて行く。
「おかえりなさーい!」
残されたノボリはぎぅ、と自らのシャツの胸の辺りを握りしめた。自分のこの姿を見ても、変わらずその手を伸ばしてくれたというのに…。拒んだのは自分。
素直にクダリの後ろを追いかけられない自分が、とても憎らしかった。
その日から、一緒に寝ていたベッドの間に、少しだけ隙間ができた。
▽ 2
小さい、けれど二人にとっては大きな変化。
ノボリとクダリが、あまり一緒に行動しなくなった。
今までが異常だったのだと、周りの大人たちはさして気にも止めなかった。彼らの両親ものんきに、あらあら、思春期かしらなどと言っていたくらいだ。
しかし、もちろんそれは違う。そして正確には、クダリがノボリを避けるようになったのだ。
そうして、そんな状況はそのままに、二人はもう中学生になる。
クダリ自身、ノボリが天使だったなんてことは実際に翼を見るまでは全く気がつかなかったし、どんな目的があって下界に来たにせよ、いつも通りにやっていけると思っていた。お互いが背負って生まれてきた意味と、今二人が置かれている状況は全くの別物だと思っていたからだ。
しかしどうやら、ノボリにとってはそうではなかったらしい。
あのとき、ノボリが一瞬恐怖に顔を歪ませたのをクダリは見逃さなかった。その顔を思い出す度、ショックと、後悔の念が押し寄せてくる。ノボリを驚かすな んてことしなければよかったと、そう思わずにはいられない。そうすれば、互いの本質など知らずに、未だ二人は仲の良いままずっと一緒にいられただろうか。
あれから数年経ったけれど、あのときのノボリの表情が、頭にこびりついて離れない。あれは明らかに拒絶だった。それ故に、クダリは極力ノボリには近づかないようにしている。もうノボリのあんな表情は見たくなかったからだ。
そもそも、確実にノボリは悪魔について誤解をしている、とクダリは思う。
自分もそうだが、力のある悪魔だからといって手当たり次第に人間を唆したり、魂を喰らったりはしない。今日だって別に人間たちの命にかかわるようないた ずらはしていない。むしろ、人間たちが好き勝手にやり過ぎないよう、戒めを与えてやっているというのに。まぁ確かに、少々遊びすぎてしまうことは無きにし もあらずだが。
そんな自分の行いの方には、極力目をむけないようにして、いやしかし、天界の方には一体どのような教育がされているのかとクダリは内心ため息をつく。地上で動かなくてはならない用事ができる度に刺客を送り込まれたのではたまったものではない。
そこでクダリは初めて、今まで地上に遊びに来たときのように他者に襲われたり妨害を受けるということが全くないことに気がついた。
一つだけ思い当たる可能性を思い浮かべ、まさか…いや、それしかないと一人唸って、何かを決心したようにうん、と頷く。あとはどうするか…
と、そこでクダリがふと視界が暗くなったことに首をかしげて視線を上げると
「あー、クダリ。今は授業中なわけだが考えごとはすんだのか。」
学園一怖いと評判な数学の教師がそこにいた。気付けば周りはしん、と静まり返り、恐る恐るといった様子でクラスメイトたちがこちらを窺っている。
クダリはあっけらかんとしてふるふると首を振りながら教師に答えた。
「ううん、まだ。」
その途端、ブチィと聞こえた音はきっと気のせいじゃなかった。
「授業に集中できるようになるまで廊下にでていろおぉぉ!」
クダリがはぁい、と返しつつ逃げるように教室を出ていきがてらちらりと振り向けば、視界の端に笑いをこらえるノボリの姿が見えてクダリはちょっぴり嬉しくなった。
また一緒に笑える日が来るといい。
クダリは機嫌よくそのまま廊下を走り抜けて、結局その日の数学はサボった。
▲ 3
あまり一緒に居ることは無くなったとはいえ、学校の行き帰りは習慣としていつも一緒だった。実はお互いに一日のうちで一番楽しみにしている時間だったりする。
しかし…
「ごめんノボリ!今日ちょっと寄り道して帰るから先帰ってて!」
顔の前で申し訳なさそうに手を合わせるクダリ。そう言われてしまっては、ノボリはわかりました、と頷くしかなかった。
けれど、一体どこへ寄るというのか…
今までこれといって何か目的があって寄り道をするということはなかった。ノボリの記憶に残る寄り道の思い出と言えば、クダリと二人して河原で転げ回ったり、いつもと違う道を通った際に見つけた公園で遊び呆けたりしたことくらいだ。
ふとノボリの頭を嫌な予感がつとよぎる。もしや人間に危害を与えに行ったのではないだろうか…
ノボリは走り去っていったクダリの背中を見やると意を決して後を追うことにした。もちろん気づかれないように。
クダリの行く先を突き止めて、場合によっては全力で立ち向かわなくてはならない。それは自らの目的のためだ。だができることならば正面衝突は避けたい。クダリが一体どれほどの力を持つ悪魔なのかはわからないができる限り傷つけたくなかった。
こそこそと物陰に隠れながらノボリはクダリの後を追った。
▽ 4
「そんなところにいないででてきたらいいのに」
人気の無い廃ビルに着いたところでクダリは、何の迷いもなくノボリが隠れていた物陰の方を振り向いてこてんと首をかしげた。
「なんだ、やっぱりバレてましたか」
うん。だってぼくがそうするように仕向けたんだから。
ゆっくりとこちらに歩いてくるノボリを見つめながら、クダリは内心ほっと胸をなでおろす。あるていど確信があるとはいえ自分で鎌を掛けておきながら、 乗ってきてくれなければどうしようかとはらはらしてもいたのだ。共に行動することは少なくなったとはいえ、お互いの行動範囲内には必ずいたノボリ。今回、 わざわざクダリを追ってきたことで、クダリは考えていたことに確信が持てた。
つまり、今回のクダリの下界の訪問について天界側はこれを重大事項と定め、ノボリを監視役、または抹殺役として送り込んだのだ。どうりで今まで下界へと 遊びに来たときのように天界が大騒ぎしないはずである。なにせ最初からクダリの制止役をつけていたのだから。もし人間を殺そうとしようものならノボリは容 赦なくこちらに攻撃をしかけていたことだろう。まあ、相手がノボリだからと言ってクダリもクダリでおとなしく死んでやろうなどという気持ちは微塵もなかっ たが。
しかしこのままの冷戦状態というのもクダリは非常に不服だった。本当はノボリと遊んだりおしゃべりしたりしたい、というのが本心なわけで。正直なとこ ろ、下界を混乱に貶めろなどという魔界の指示などクダリにはどうでもよかった。楽しめればそれでよかったため、本来ならば適当に遊んでさっさと帰るつもり でいたのだ。しかし代わりに芽生えたのはノあろうことか天使であるノボリともっと一緒にいたいという突拍子もない考え。ただ自分がこのままではまたノボリ を怖がらせてしまうというのも事実。
そこで、自らの欲を満たすべくクダリは妙案を思い付いたのだ。
クダリは側にあった錆びた鉄骨の上に腰かけるといたずらっこのような無邪気な笑みを浮かべてノボリに問うた。
「ねぇ、ノボリ。ぼくがさ、どんな悪魔かって知ってる?」
「……さぁ、聞いたこともないですね。」
軽く首をかしげ、さして興味もない、というふうにノボリは答える。予想していた答えに、クダリは大仰に両手を広げてみせた。
「じゃあ教えてあげる!白の悪魔って言ったら、聞いたことない?」
その言葉に、ノボリはぴくりと反応する。
「…まさか…かつての下界での戦争において人間たちに甚大なる被害を与え、そのふるまいは冷酷且つ残酷。また真っ白な炎を操ることから白の悪魔と呼ばれて恐れられていた上級悪魔、エメット…なのですか。」
「ご明察!」とクダリはノボリの反応を見て嬉しそうにぱちぱちと手をたたく。
実は一般的に、悪魔とは名前や総称だけが一人歩きしていることが多く、また決して自らも名乗ったりはしないため、名は知っているが本人は見たことが無い ということが常なのだ。それは命ある者にとって等しく、名前と言う物はその者の魂の定義と同等のものであり、名を知るものはその者を意のままに支配するこ とさえできてしまうこともある非常にやっかいなものでもあったからだ。しかしその構造は非常に複雑であり、相手を縛ろうとすればするほどその相手の顔や年 齢などといった情報が必要になってくる。故に名前さえ知っていれば行えてしまう召喚などは、手順を踏めば人間にも行える一番低級の術であると言える。高度 な術であるほど、相手の必要情報量が多く必要になるわけだ。そのため悪魔の場合、大概は自分の名を知りえる者と遭遇した場合には葬ることが一般的なため、 名前と顔が合致することが滅多にないというのは当然と言えた。
「で、ノボリはどうする?」
これはちょっとした賭けだった。長年の勘というやつか、ノボリの方も随分と力のある天使であることが分かる。やろうと思えば、殺すとはいかないまでも、 クダリを拘束するなり封印するなりくらいはいくらでもできてしまうだろう。それを分かっていてクダリはあえてノボリに名前を教えた。それは、ノボリの手で 自分の力を封じ込めて欲しかったからだ。そうすれば、どうあがいたって自分がノボリに危害を加えることができない。また昔のように、ノボリのとなりにいる ことが許されるのではないかと思ったのだ。
「…どうする、とはどういうことですか。わざわざ敵のわたくしに名前を教えるようなことまでして…。一体何を企んでるんです。」
未だ警戒するように、ノボリは怪訝な顔をする。その様子に、前にもまして警戒させてしまったかなぁとクダリは苦笑する。
「んー。別に何も。」
ノボリの視線を受けて、クダリは努めてどうでもいいことのように肩をすくめた。
「あ、でもしいて言うなら、飽きちゃったから…かな。そう、ひとりで遊ぶのにもそろそろ飽きちゃったんだ。ぼくが危険じゃなくなったら、ノボリはまた、昔みたいにぼくと遊んでくれる?」
「…さあ、どうだか。」
「わ、遠慮ないなぁ。」
ノボリの言葉にクダリは苦笑する。
「しかし、せっかくの機会ではありますからそれなりの処置だけはさせていただきます。」
言い終えたのち、ノボリは一瞬にしてクダリのそばまで迫るとその白い手首をがしりとつかむ。
やろうと思えばできたであろう避けるといった抵抗などせずに、クダリはおとなしくしていた。
きぃんと音がして、まばゆい光とともにかしゃりとクダリの腕にはまったのはガラスのような腕輪。
「これで、あなたはもう魔力が使えませんよ。」
そう言われて、クダリは試しに炎を出してみようと試みる。なるほど、技が出せないどころか自分の魔力の流れさえ感じとれなかった。
「へぇー…」
実感してみてクダリは素直に感嘆の声を上げる。これはこれでおもしろいではないか。
ちょっとだけ期待をこめて、クダリはノボリを上目遣いで見上げた。
「じゃあさ、ノボリ。また、ぼくと遊んでくれたりする?」
その言葉に、ノボリはクダリを見据えてきょとりと瞳を瞬かせる。次いではっとしてぷい、とそっぽを向いてしまった。
「…考えておきます。」
だよね、と半ば予想していた返答に内心では納得してはいたが、クダリの表情からは笑みつつも寂しさがありありと感じ取れて。
ノボリは無言でクダリの方に右手を差し出した。その意味を理解できずに、クダリは無言でノボリを見上げる。
「いつまでそこに座っている気ですか、我々の両親が心配します。帰りますよ。」
家族ごっこの再開。また昔みたいに遊べる日はまだ遠そうだけれども、今日は少し前進できたかな。
「うん!」
ノボリの手を取って立ち上がる。自然と離れようとした手に力をこめて、つなぐ手をそのままに。不思議そうに瞬いてこちらを見るノボリの視線には、気づかないふりをした。
手をつないだまま、二人は帰路につく。どちらともなく速度を落とし、他愛のない話をする。
時折見せる君の笑顔、偽りのものではないと、思ってもいいのかな。
クダリはつなぐ手をきゅ、と握りしめた。
▲ 5
学校からの帰り。いつものように、二人一緒に歩いて帰る。あれからちょっとだけ二人の間は縮まって、今までノボリの後を追いかけるようにしていたクダリ は、また昔のように並んで歩くようになった。ノボリのとなりを歩くことに引け目が無くなったのは、ノボリがクダリに付けた腕輪の効力が大きい。
腕輪のおかげでクダリは一切合切力を使うことはできないが、裏を返せばそれはノボリを傷つけることができないという証でもあったからだ。昔に見せた、ノ ボリの恐怖に歪んだ顔など見たくない。隣にいることが許されるなら、力くらい失ったって構わない。クダリはそう思っていた。ノボリのとなりを歩くその足取 りは軽い。
クダリのそんな様子を見て、ノボリもまた、その表情は自然と柔らかいものになる。
「何やら今日は機嫌いいですね、何かいいことでも?」
「うん。ちょっとね!」
クダリは内心ちょっとどころではない歓喜に満ち溢れていたがそれらはそっと胸のうちに押し込めて、にこりと微笑むだけにとどめた。
そんなやりとりをしてる内に、いつも通る公園の前を通りすがる。
何とはなしに目をやると、近所なのだろうか。一人の少女がボール遊びをしているのが目に入った。と、キャッチしそこねたボールが地面にバウンドし、転がってゆく。そのボールを追って、少女は道路へと飛び出した。
「あぶない…!」
見れば、トラックがクラクションと共に迫っていた。ノボリは反射的に、少女を守ろうとトラックの前に飛び出して、彼女を抱える体勢をとる。
その様子に、クダリがぎょっとしてノボリの後を追った。
「ばか!」
ノボリが感じたのは背中への衝撃、次いでブレーキ音だった。地面へと転がる衝撃に耐え、おそるおそる目を開けると視界に映るのは少女の無事な姿。そのことにほっと胸を撫で下ろす。次いで、少女を解放しつつ、自分たちが道の脇にいることに内心首を傾げる。
そして聞こえてきたのは悲鳴と、何やら騒がしい声。
「誰か!救急車を!早く!」
「おい!大丈夫か!」
まさか!とノボリが人がいる方へ行けば、道に倒れているクダリが目に入った。駆け寄ると、クダリの前に膝をつく。
「クダリ…!」
「あ、無事だったんだ。」
クダリは声には出さずによかった、と付け加えてノボリには気づかれぬよう、ほっと胸を撫で下ろす。
「無事って…あなた何をして…というかもし怪我をしたなら早く再生なさい。でないと騒ぎになりますよ。」
「あのねぇ、この腕輪…誰が着けたと思っ…ごほっ、ごほっ!」
ノボリの言葉に呆れたクダリは反論しようとしたとたん、咳き込んで苦しげに顔を歪めた。どうやら肺を痛めたらしい、とクダリは推測をつける。しかも運の悪いことに、接触の衝撃で割れたヘッドライトが背中に刺さったらしく、傷口がじくじくと痛む上、出血が激しい。
徐々に大きくなる血溜まりにノボリが気づき、顔から血の気が引いた。いくら魂が悪魔とはいえ、身体はもろい人間のもの。このまま放っておけば、確実に死に至る。
「クダリ!」
名を呼びながら、慌てて自らが着けた腕輪を外す。かしゃんと音がして、それは宙にとけて消えた。
ノボリも治癒は使えるが、天使は悪魔には使っていけないという掟がある。それを破るわけにはいかなかった。 さあ、とノボリはクダリを促すが、思っていたよりも衰弱が激しくクダリは力を使うことさえできないようだった。
ノボリは焦った。
彼という存在がいなくなるわけではないということはわかっていた。人間の身体という器が無くなれば、魂は解き放たれて本来の形に戻るだけだ。
そうだとして、だがクダリは?双子として共に歩んできた様々なものが、脆く崩れ去っていってしまう気がした。元より彼は悪魔、その方がいいのだと頭では分かっているが、それを思うと胸がぎぅと締め付けられる。なぜこんなにも苦しくなる、痛いのだろう。
ノボリの頭は若干パニックを起こしていた。血を流し続けるクダリを前にして、手を握り、死なないでくれと叫びながら大粒の涙をこぼす。
その様子に、クダリがくすりと笑った。
「天使、が…悪魔に、そんなこ、と、願って…いいの?」
「ばかなことを…!そんなこと言ってる場合ですか!」
それを聞いて、クダリが苦しそうに顔を歪ませて、しかし痛みから来るものではない涙をこぼす。ノボリの握る手を力なく握り返した。
「はは、…ね、ノボリ…その気持ち、信じてもいいのかな?」
「何を言って…!」
それだけ言うとクダリは瞼を閉じてしまう。ノボリにはクダリの意図するところがわからなかった。
「クダリ…!」
「救急車が来たぞー!」
誰かが叫んだその声に、しばし呆然としていたノボリははっとして顔をあげた。車から降りてきた救急隊員が手早くクダリを搬送する準備を整える。
「ほら、君も!」
ノボリの顔を見た隊員が、親族と判断したのだろう。迷うことなくノボリをクダリと共に救急車へと押し込む。搬送されんとするクダリの脇に腰掛け、どこか遠いところで救急隊員が指示を飛ばすのを聞いた。
クダリの手を握ることだけが、今ノボリにできる精一杯のことだった。